百か日法要を経験して考えた事
2月26日日曜日、妻のおばあちゃんの百か日法要に行ってきました。

By Yoichi Matsuyama
そもそも法事とか法要とか言ってるけど、これはなんのためにあるのか?四十九日とか百か日とかっていうのは、亡くなってからの日にちだからそれはそれでわかるが、じゃあ何の為に親戚一同が集まってやるのか、今更ながらだけど少し調べてみた。
「法事・法要・四十九日がよくわかる」によると、
”法要とは故人を供養するという意味の仏教用語で追善供養ともいいます。
法要は故人を偲び冥福を祈るために営みます。冥福とは冥途の幸福のことで、故人があの世でよい報いを受けてもらうために、この世に残された者が供養をします。”
なるほど、「追善供養」っていうんだな。妻のばあちゃんは102歳で亡くなった。最後の4年は病院に入院していたけれど、それまでは妻の実家で元気に過ごしていた。優しさの中にも芯がしっかりある人だったと思う。今回の法要でばあちゃんの子ども達、つまり義理のおじさんやおばさんを見ていると、しっかりばあちゃんに育てられてきた人たちだなぁ、というのが所々に垣間みられたように感じている。それはまたおじさんおばさん達にとっては「ばあちゃんが残してくれたものをきちんと次の世代にも引き継いでいく」ということなのだろう。お斎(おとき)では、包装紙を何枚でもきれいに伸ばして箱の中に入れてしまっていたばあちゃんのことをおばさんが話していたが、モノを大事にする、ばあちゃんの生き方なんてみたいな話が交わされていた。
故人が設けてくれたご縁

By my_little_planet
ばあちゃんの葬儀や法要で、初めて会う妻の親戚も多かった。それは妻のいとこだったりばあちゃんのきょうだいだったりした訳だが、こういう機会がなけらばずっと会う事もなかったろうな、と思った。それは本当にばあちゃんが、自分の死を通して設けてくれたご縁である。「法事・法要・四十九日がよくわかる」のなかにも書いてあるけれども、
”法要は、故人が設けてくれた人と人とのご縁、「この人がいたから自分がいる」というつながりを再確認し、故人への感謝の思いを新たに、自分自身を見つめ直す場でもあります。”
ということを実感した良い機会だった。
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